「死ねばいいのに」 京極夏彦

投稿者: | 2011年2月9日

どこかのブログの書評で知って図書館で予約したらしいのだけどすっかり忘れていて、図書館から順番が回ってきたお知らせメールをもらって、とりあえず借りてきた。

たぶん、題名に惹かれたんだと思う。。

「死ねばいいのに」という言葉は、面と向かっては人に言えない。いや、類する言葉は厳密に言えば使ったことある(「死んじゃえ」とか)けど、オトナとして、アカノタニンに投げていい言葉では決してないという常識がある。

だけど、「死ねばいいのに」と、ヒトに対してまったく思わないのかと言われるとそんなことはなくて、特に他人とつながりの薄い私には、世間中生きようが死のうがどうでもいいヒトだらけなので、害意を感じる毎に胸の内で「死ねばいいのに」と始終思ってしまっている。

「死ねばいいのに」と心の中で思っても、その言葉が呪いになって相手が死ぬことは決してない。
ネット上にあふれている「死ねばいいのに」も、面と向かっていないから投げられる言葉で、これも相手を死なすことは決してないとみなわかっている。
「死ねばいいのに」は「死なせたい」でも「殺したい」でもないのだ。
「バカカバチンドンヤ~オマエノカアサンデーベソ」と同等の意味しかない。
それだからこそ安心して思ったり書き込んだりできる。

「死ねばいいのに」という言葉は、関係性を離断する言葉だから人はめったに使えない。でも、そもそも関係性のない相手にはこどもの悪口ほどの意味しか成さない。
そんな裏表のある言葉が題名っていったい…

マンションの一室の自宅で死んでいた20代の女性の関係者に「ケンヤ」と名乗る男性が訪問し女性(アサミ)のことを尋ねていく。
どの相手もケンヤの無礼でふてぶてしく妙に素直で頭が悪いと前置きしつつも洞察のするどい切り込みにアサミとの真の関係や自分自身の見つめてこなかった心情を語りだす。そしてそうした相手にケンヤが用いるのが…

女性の死因は次第に明らかになる。なぜアサミが死なねばならなかったのかは最終章の一番最後に。
ケンヤの心情が理解できないという人が書評では多かった。
だが私にはむしろアサミが異形の人にうつり、ケンヤの恐怖もわかる気がした。

山岸凉子の「妖精王」に出てくる「悩まぬ者」を連想した。
生きている限り悩み、欲を持つのはまっとうだ。