何か気になる花の画像をネットで探したとする。
さすがにホームページでは少ないけど、ブログなどにはしばしば、全然花にピントがあってない写真とか、色味がまるで違ってしまっている写真とか、私なら絶対に使わないような写真を使っている人がいる。
ちょっと念を押しとくけど、これは私の写真が上手だという話をしてるんではない。
その花の記事を書きたい。そして撮影した写真が当該のものしかない、そういう時、私ならもう、記事自体を書かない、という選択しかないのだけれど、きっと多くの人は、そのまま記事を書くのだろう。
私がなぜ、記事を書くことを諦めてしまうのかというと、それは、「下手な写真を載せている」と思われたくないからだ。
ブログなんぞ自己満足のために書いているのだから、写真がぶれていようが文章がまずかろうが別に気にすることはないのだ。書きたい気持ちがあれば書けばいい。
ただ、主体が私だとそうはいかない。少しでもマシなもの、できれば人より優れているもの、可能なら一番いいもの、そういう気持ちでブログを書かなければ何の意味もない。
・・・そう思ってしまう。
私のすることはなんでもそつがない。人よりちょっとマシに見えるように努力するからだ。加えて、努力してもうまくいかないことはやらないし人に見せないからだ。
なぜ、へたくそなところを人に見せないのかというと、これが前に書いた自己肯定感のなさが原因なのだと分析している。
私は人間の値打ちとしてマイナスでありすでに負債であるので、付加価値をつけないと人に交われないと思い込んでいる。
たとえば
「ブログにちょっときれいな写真を貼る○○○」
のような。
「××が上手な」という修飾詞がつかなくても人間は生きていていいと、私は私に信じ込ませないといけないのだなと、このごろやっと気がついた気がする。
誰かにほめてもらって自分に生きる値打ちを見出すのなら、そのほめる根拠を疑えば自分の存在価値は限りなくあやしくなる。
事実私はどんなに人にほめられてもちっともうれしくないしちっとも自分を好きになれなかった。逆に飢餓感ばかりが増していた。自分で自分をちっとも認めないからだ。
・・・そんなことをこのところいろいろ考えていた。
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「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」
うたまっぷ←歌詞
RCサクセションには「スローバラード」という有名な歌があるけど、別に真似したわけじゃなく、私も車の中で手をつないで寝たことがある(おまけに、警官の職質にあうというところまで作者と一緒)。
忌野清志郎が死んで夢中になって聴いたことのなかった歌を聴き始めて、「ハードフォークサクセション」というアルバムの中に入ってた「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」の歌詞に顔を張られたような気がした。
大学の時ゼミか何かで私の発言した内容がうまく伝わらなくて発言力のある人に責められるような形になって口をつぐんでしばらく下を向いていたとき、隣にいた付き合う前の夫がレジュメの端っこに「○ちゃん全然悪うないよ」と書いてくれた。
私は、否定されると死にたくなってしまう。
肯定されるとやっと生きていける心地がする。
だから、そのことばに参ってしまった。
まるで、私の青春を見てきたかのような
ぼくは悪くない
ぼくはそれほど悪くない
ぼくはちっとも悪くない
君だけさ忘れない
の歌詞。
私が自己肯定感の高い人間だったらきっと、この歌に対して心を打たれたりしなかったろう。
「わかってもらえるさ」という歌の気持ちをわからなかったろう。
夫も、忌野清志郎の歌も好きでいなかったろう。
だから、いいんだ。