(でかけた・・・って言っても徒歩5分ほどなんだけどね)
大雪の降った2月14日の2日後の16日、上牧町の久渡2号墳の現地説明会に行ってきた。
朝9時ごろだったので人は少ないかと思っていたらご近所の人がたくさん。でも、最寄り駅から歩いてきたらしき完全装備の(ほとんどトレッキングのカッコでした)人なども見受けられた。
実際住宅地の隙間から木々が伐採された丘に登ると、雪どけがぬかるんで足下の悪いこと。念のためウォーキングシューズを履いてきていたけどトレッキングシューズの方がよかった。
久渡2号墳は久渡古墳群の一番南にある古墳で当初考えられていたのと違い7世紀半ばごろに築造されたものらしい。
(だから高市皇子の墓ではないということみたい・・・)
周溝をめぐらせた立派なものであること、馬見(うまみ)古墳群から離れて単独に位置していること、久渡古墳群が4~500年の間特色ある古墳がいくつも作られてきた他に見ない古墳群であること、それに加えて、近年は絶えてなかった新発見の飛鳥時代の古墳であることなどから、今後の考古学の研究上重要性がある古墳と言えるようだ。
画像ではわかりにくいけど、石室の床面は凝灰岩(本来は白い)が厚く敷き詰められているらしい。石室の側面と天井石には輝石安山岩(赤い石)の自然石が使われている。画像の右手、大きな丸い石がその赤い石で、これは非常に硬く、中世以降、築城などに用いるために石室から9割ほどの石が盗まれたらしいのだが、天井石や側面の石のほとんどが盗まれてもこの大きな丸い石はその大きさと硬さのために盗めなかったのだろうとのこと。
床面が白い石、天井と壁が赤い石という豪華な造りの石室は他になく、また凝灰岩は香芝市の高山石切場遺跡から、輝石安山岩は王寺町の明神山から切り出されたものと見られることから、3~4kmの距離重い石を運ぶ労働力を確保できるだけの有力者の墳墓であろうとのお話。
羨道部の床面。須恵器の破片が散乱している。
須恵器は、祭祀に使われた後わざと壊したもので、他に用途はわからないが飛鳥時代の平瓦が多数出土していたそう。
画文帯神獣鏡が割られちゃった3号墳のある丘から南面の2号墳をのぞむ。
規模は全然違うけど、この丘はきっとエジプトの王家の谷みたいな有力者の安息の地だったんだろうと思うんだけど、今は小規模開発を繰り返して、ここに入ってきた車が必ず迷うようなせせこましい住宅地になっちゃって、もし霊のようなものがあるなら(いや無いがw)きっと面食らっているものだろうと思われ。