大学の3回生のときに、別のクラスの学生だったけど、学内で早朝に飛び降り自殺をした。
ウチの学校というのは教育学部しかないので、所帯が小さいから、専攻が全然違っても教養課程などでたいてい顔見知りで、もちろん私もその彼は知っているし口を利いたことも数えるほどだったがあった。私のサークルの仲間には彼とクラスが同じものも多くて、その日10時過ぎに大学に行ってみたらその人たちは激しい動揺と悲嘆の渦の中にいた。
その時の私の気持ちというのは、ただただ居心地が悪かった、というのに尽きる。
サークルには私とそんなに変わらないくらいにしか、生前の彼と関わりの無かった人もいたのだが、みな同じように彼の死を悲しんでいた。私は、違和感しか持たなかった。彼について何も知らない。苦悩があり死を選んだのだろうことはお気の毒に思ったが、悲しむのは私のするべきことじゃない、と思った。それは僭越だと思った。
主婦になってある婦人団体で役をしていたころ、その地域でその団体の活動を長い間してこられた高齢のご婦人が突然クモ膜下出血で亡くなった。通夜式が終わった後私は家に帰ったのだけれど、私と同じころにその団体に参加してきた他の何人かはそこに残って夜更けるまで亡き人の思い出話をされていたらしい。
通夜式ではみなさん涙ぐまれていた。私も親しくさせてはいただいたけれどそれも役の事務的なことの延長だったので、その人の心のうちに踏み込んだこともないしその逆もない。だからやはり、私が悲しんだりするのは変だと思ったし涙も出なかった。
「少し残って話ししていかへん?」と誘われたけれど断った。切実に悲しいと思っていないことにテンションをあげて悲しぶってみせるみたいで恥ずかしかったからだ。
向田邦子の小説で読んだ「獺祭」という言葉が浮かんだ。
私はごく近い人の死に目に会ったことがないから、死というものが本当にはわかっていないのかもしれないけれど、やはり自分の立ち位置を見失うくらい悲しみにおぼれるようなのは気持ちが悪い。
そういう悲しみの中には、なんだかほんのちょっと「甘み」があって、本当はそれを楽しみたいんじゃないかと邪推してしまう。
私が、誰に恥ずかしくもなく悲しみにおぼれられるのは、犬が死んだときか、夫をなくしたときだろうな。
今日はもう、雪割草の古葉切りをはじめた。元気ない子が多いのでこれからどしどし育てる!