このごろの朝は、7時15分から「カーネーション」を正座して見て、続けて「花子とアン」を時計代わりに見る、というのが習慣。
安藤はなを見ていると、どうしても、高校・大学時代の自分と重ねてしまう。
高校の友人たちはみな「ちゃんとしたお家の子」が多かったので、私は実は大変肩身が狭かった。
ある男友達の家は部屋が十六間あって、そのうちの三間をその友達が使っていたり、ある女友達は父親が惣領で二人姉妹の長女だったから、いつかあとを継ぐために養子をもらうのが決まっているとか、私の人生とは何にも関係ないような暮らしで、でも、そういう友達よりもちょっとお勉強ができる私は、彼らの下に自分を置くのはイヤだったから、たとえば父親が違うことなどは別段隠しもしなかったけれど、自分が親に大切にされていないこととか、本当はとてもさみしく心細く、心の拠り所がないことなどは、決して語ろうとはしなかった。
大学でもそれは同じで、いやむしろもっといろいろ深刻で。
これからはなは、大正天皇の従兄妹という人と腹心の友になるのだろうけれど、どうやって二人は腹心の友になれるのだろう?
そういうことって、可能なのだろうか?
説得力のある芝居になっているといいのだけれど、あんまり期待できないかもしれない。
親兄妹を恥ずかしいそぶりなどちっともしなかったはななのに、「親が恥ずかしい」と説明したのが合点いかなくて。