えがお

投稿者: | 2014年7月16日

かつて私の友人だった人は、写真を撮られる時に必ずつくり顔をする人だった。

一時期べりーふぇいますだった女芸人と彼女は似ていて、これは地雷のようなもので一度踏んでエライ目にあったことがあったけれど正直に言ってしまうと彼女は「ブス」という言葉の意味するところをかなり忠実に具現していたと言える面立ちだった(ああまわりくどいね)。
目が小さくて感情が現れにくいのもあるし頬がこんもり張っていたので陰影で不機嫌そうに見られがちでもあったと思う。

だから彼女のつくり顔は研究され尽くしたもので、かわいくうつるべく目をしっかり見開いて、歯ならびの悪さが見えないように閉じた口は陰鬱そうにみえないように口角をしっかりあげて、少しおどけたような明るい、まるで判でついたかのようにいつも同じ顔で写真に写っていた。

私には、その行為は本当に不思議だった。

親に容姿をずたぼろに貶されて育った私は、写真に撮ってもらうこと自体を念入りに避けた。
だから、彼女がことさらすすんで顔まで作って写真に撮ってもらおうとするのは理解しがたかった。
(その理解しがたい気持ちの中には、「私程度のブスでも写真をはばかるものなのにどうして彼女が・・・」という情けない考えもあったことを特に記しておく)

 
 
最近ネット上では彼女の写真をたくさん見ることができる。というのも、彼女はある伝統楽器の奏者として生計を立てていくべく仕事をやめて、今はあちこちのライブハウスなどに出演していて(先だってはお昼のNHKの番組にも出ていたらしい。私は見なかったけれど)、その画像がライブハウスのサイトやらなにやらにUPされているからだ。

彼女は演奏中は写真用の顔じゃなくて、むっつりとした不機嫌そうな暗い面持ちで写っている。
集合写真などがあると、やっぱり昔のようなつくり顔をしている。

昔は「今撮ったらあかーん、写真用の顔作るから待って~」などと言って写真に撮られていたけれど、今はもうちょっとユルくなっているのか、演奏中だから構っていられないのか。
生きることの自信があふれて自然でいられているのかなとなんとなく感じた。
 
 
 
昔の彼女の、顔を作ってでも写真に写ろうとする意思というのを、私はもっと学ばないといけなかったと今は思う。
彼女は自分がブスなのを決して喜んではいなかっただろうが、でもそのことで自分を見捨ててはいなかったのだ。
そこが私との違いだった。

私は自分の何もかもが嫌いで何もかも許せなかった。だからちっとも、ブスの自分と折り合いをつけるなんて考えなかった。
ブスを思い知らせる写真など撮られたくなかった。

自分を許せないで生きていると、生きていることが負い目になるので、ただ人に迷惑かけないように、人の機嫌を損ねないようにと、そればかり気にして生きることになる。そして自分の本当にしたいことなど思い描くことすらできない。

そうして50歳という年になって、彼女と私の立ち位置はかけ離れていて、私は相変わらず、カメラの前から逃げ回っている。

 
 
これは、あんまりだよね。

 
 
もう、いいかげん自分を許してあげよう。
別に人に誇る何かなどなくてもいいし、誰かに嘲笑われるかもしれないけれど、それでもいいや。
私の手元にある、私の好きなもの、ちょっとしたもの。
それをいとしくおもっている心があれば大丈夫。

そして、そういうきもちをそのまま顔に出せていれば、それが世で言う笑顔というものでなくても、そんなに悪くない、ハズ。