「嫌われる勇気」を読んだ

投稿者: | 2014年11月28日

図書館で2週間前に順番がまわってきたので借りてきて、昨日医者の待ち時間で読み終わった。

最初の方に、アドラーの心理学は、心理学とはいっても哲学である、と言うようなことが書いてあったと思うのだけれど、たしかにこれは哲学だと思う。
主観的観念論という名の。
・・・だって、幸も不幸も自分しだいっていうんだもの。

不幸であると認識するのは、その不幸がその人が楽に生きるための「人生の嘘」に必要であるからだ、と著者は説く。
では、その不幸である人たちの中に、戦地で爆撃にあい無残に殺される、まだ自我のない赤子は入っていないのか。彼らは不幸と感じないので幸福なのか、と聞きたい。

ある人が不幸であった過去に縛られて今を幸福と思えないのは、現在を生きる勇気がないからなので、勇気を持って過去を断ち切り、今を生きるダンスをせよ、と著者は説く。
しかし、不幸な過去の正体は非常に個人的なものも含まれれば、社会によってもたらされるものもある。
個人的なことなら断ち切って今を精一杯生きることも1つの方便だろう。
しかし、社会的な不幸は、それを絶とうと社会の成員が闘わなければ際限なく繰り返される。
ただ忘却していては社会の進歩はありえない。

さまざまな「自己啓発」の、これは底本のようになっている心理学なのらしいのだけれど、「自己啓発」というものの存在は、多くの場合、迷って生きている人を食い物にしたり、どこかの誰かに都合のよい思考停止の人間を量産したりすることに役立っているので、この本にもそんな胡散臭さを感じずにはいられなかった。
自己の承認欲求を否定するために他者への貢献を求めるあたり、社畜や戦時標語を思い浮かばずにいられなかった私はヘンなのか?

・・・と、辛口の言葉を書いたけれど、生き難いと感じている人が足を踏み出したいと思っているときに、自分自身に認知療法を施すつもりでこの本に書かれていることを生活に取り入れるのは悪くないかもしれない。
残念ながら、私は、今年の2月に元友人からどん底に陥れられて這い上がってくる過程で、この本に書いてあったようなことを自分で掴み取って今実践している最中で、いわば「時遅し」というような感じなのだけれど、この本の終わりに、アドラーの心理学をもっと早く知りたかったと言う青年に哲人が答えたように、だからこそちょうどいいタイミングだったのだろう。そうでなければ、この本の毒におかされていたかもしれない。

私の実践については、またいずれ書きます。