サクラチレ

投稿者: | 2016年4月8日

火曜日は也々の初めての命日だったので、ケーキ屋さんでチーズケーキを買ってお供えして、食べた。
目が悪くなり、からだが衰えてからは、遊ぶことがほとんど何もできなくなったから、也々を喜ばせるのは、人間が何か食べている時に一緒に食べることしかなくなった。その食べ物も、IBDになってからはさつまいもやかぼちゃくらいしかあげられなかった。
だからせめてもう、死んじゃったのだから、これ以上おなかを壊すことはないのだから、元気な時に好きだったものをあげる。
 
桜を見るのがつらいから、お天気と夫の休みと桜の盛りが一致したこの春だったのに、お花見をしなかった。厳密に言えば、ちょっと佐保川の桜を見に行ったのだけれど、私は桜を見るのが嫌であんまり写真を撮らなかった。
也々が鼻腔内腫瘍の疑いがあるといわれて4年と1ヶ月、次の年の桜の花を見ることが癌を否定することになって、癌ではない?と思うようになってからも桜が也々の命の節目のように思っていた。嵐のように肺炎が也々を連れ去り、今年の桜は見られなかった。也々と散歩して集会所の桜の下に立って、また一年生きながらえたね、と思う、その儀式のようなことが今年はできなかった。一人で、どうして桜の下に立てるだろう。

世間の人は怒涛のように来た春を楽しみ、桜に浮かれる。それはとてもすてきなことなのだけれど、私は見たくない。昨日の嵐、花散らしの雨風になぜかホッとした。ごめんなさい。浮世の方々。こればかりはゆるしてください。

今日は、三十五日。鶏手羽元のゆでたのをあげようとさっき用意した。夕飯の時にお仏壇に供える。
仏教も、それ以外の宗教も何も信じていないけれど、こういう儀式があるだけで心の穴を何か埋める作用があることは認める。調子がいいけれど、利用させてもらう。


この間から庭にカエルさんがいる。冬枯れ色のアマガエルさんだ。ずいぶんぷっくり太っているがしっかり食べて元気でいてくれよ。