おわらない

投稿者: | 2016年8月15日

お盆だからというのではなく、父の誕生日なので昨日実家に行ってきた。今朝帰ってきた。
お刺身盛り合わせとお寿司と焼き鳥と、御所の地酒を持参して、誕生祝に1万円包んで。5月の母の日、6月の父の日、8月の父の誕生日、10月の母の誕生日、そして正月(正月はたいていフグ鍋)。毎年繰り返されるイベント。
とりあえず、次は10月末だ。

これはいわば、朝貢のようなものだと私は考える。あるいは、神饌のような。
両親とも、この頃とみに老化が激しく、いつかはこれも終わるのだろうが。

犬が死んでからも毎日、犬のことを話題にする。
死んでから日の浅いうちは、自分の至らなさを責めて、後悔して、1か月間の苦しみ様を、いまわの際の激しい下顎呼吸を、かたくなったなきがらを思い出すばかりだった。
それでも、道を歩けば散歩の犬に会う。山に登っても会う。テレビで「かわいいワンちゃん〇〇連発」なんて番組をやっている。ネットのまとめサイトのようなものに犬の話題がのる。そんなものを忌避せず、時に涙と鼻水をだらだら流しながら、時に懐かしみながら、時に大笑いして・・・
そういうものに触れると、「也々はこんなだったね」と自然と話が弾む。
私と夫はごっこ遊びが上手なので、いつでも也々がそこにいるようにふるまうことができる。
也々の仏壇に向き合いながら食卓を囲む。寝間の枕元に置いてある写真に話しかけて休む。勿論、下あごの横の毛の密生しているところに両手を当ててもじょもじょくすぐって、犬にカーミングのあくびをさせることもできないし、寝転がった犬のわき腹を「カイカイカイ」と言いながら掻いて、犬の後ろ足に掻かせるしぐさをさせることもできない。
でも、そんなことをまざまざと思い浮かべる、共有できる記憶がある。
さみしさもあるけれど、心の底にひたひた温かいものが流れる。これは幸福だ。
犬は3月5日に死んでしまった。でも、犬と暮らした幸福は終わらない。いつもここにある。
「也々ちゃんはずっとそばにいるよ」ということばを、それを発した人には申し訳ないが、単に気休めのなぐさめだと思っていた。それはこういうことだったのだね。
人として欠けたところばかりの私に、也々はまた、教えてくれる。


去年苗で買ったアサリナ。越冬して今年も咲いている。
いつまでも・・・