目下の心配は台風。昨日のうちにすだれは片づけた。今朝雨戸も閉めた。南からの高温で湿った空気がクソ暑いからもうエアコンも入れてる。
前回上陸した台風はお伊勢さんの方から紀伊半島の付け根を横断するという暴挙に出たのだが、台風が最接近したあたりで気温はさほどでないのにムカムカするような蒸し暑さで目が覚めて寝られず、夫も実家の両親もそうで、後からあれは気圧のせいだったのかなと思った。おそらく965hPaくらいだったのか。普段生活していてそういう気圧はないので(山に登ればあるけど)、体がついて行けなかったのだろう。
今度の台風も上陸時に950hPaくらいを維持したままの可能性もあるから来るならもう1秒でも早く過ぎ去ってもらいたい。
対人関係で理不尽な目に遭ったことをいくつか忘れられないでいる。
理不尽、というか、相手が私にそう言う言動をするということは、私に対して何ら好意も愛情も相手は持っていないのだと心底思い知らしてくれるかのような。
例えば、腐って膨れ上がった卵巣をとるために腹をズンバラリンと10数㎝切った翌々日に、出産の会陰切開の痛さを「ほんとに壮絶な痛み!切ったことない人にはわからない」と(多分気持ちの根底に誇らしさと高揚があるのだろうと感ぜられるように)言われたりしたこと。
また別の人だけれど、卵巣のほとんどを失った私のところに大きなお腹で見舞いに来、その後、彼女が余計なことを他所に伝えたばかりに私は「子どもを産まない人間は生きる値打ちがない」という言葉まで賜ったこと。
私はどうも、だいぶ頭が悪いので、こういう目に遭ったときに「なんかイヤだ」とは思うのに、そのことの何がどうダメで何のために自分が傷ついているのかすぐに理解することができない。多分「イヤだ」という気持ちも表情に出ていないのだと思う。自分の感情をあらわにしてはいけない、感情を押し付けると自分から人は去るものだと幼い時から行動様式に組み込まれているからだ。
後から考えて、私という人間は踏みつけにしていいものだと親しい(と思っている)人から認知されているのだな、と気づくのだけれど。
気づいて、鬱屈する。理不尽だよなぁ、と思う。でも、どうすることもできない。
こういう鬱屈は放置しておくとどんどん膿んで、自分の内面はものすごく蝕まれてしまう。おまけに近年、その相手にとっての私の存在はやはり鴻毛のごとし、ってな感じであることを再確認した。
いろいろあったが今はしっかり絶縁した。
私には、だからともだちがいない。
結局、自分のことを誰かにちゃんと思ってほしい、わかってほしい、大事にしてほしい、と思うなら、自分が自分を大事にすることなのだ、とこの頃思う。
軽んじられたくない自分があるなら、軽んじられた時にきちんと抗議しなければならない。それには技術もタイミングもいろいろあって必ずしもうまくいかないかもしれないけれども、自分を大事にしている自分が、最低限度人として尊重してよと相手にきちんと主張することは、ごくごく当たり前なことなのだ。
そして、じぶんをきちんと大事にするものにこそ、ほんとうのともだちができるのだ。
一時、「相手に嫌われるから」「必死なように見られたらかっこ悪いから」などとその権利を放棄したら、「一生、自分を軽んじてよい権利」を相手に与えることになるのだ。
私はそうした。そして30何年もその権利を行使され続けた。
ともだちがいないことはけっして褒められることじゃない。私は貧しい人生だと思う。だけど、踏みつけにされないことを不器用ながらやっと選択できたこと、これは評価してもいいんじゃないか。
貧しくても、借金があるわけじゃないものね。