母が死にました。
2日金曜日から介護ベッドの上の人になったものの、ポータブルトイレを使って用は足せていました。ただし、私が抱きかかえて介助していました。
3日土曜日の朝はコーヒーが飲みたいというので、誤嚥を防ぐとろみをつけてコーヒーを入れましたが、ジェスチュアで(おいしくない)という素振りをしていました。
イチゴのみぞれを所望したり、クラッシュドアイスを欲しがったりして、もう食べ物はあげられないので欲しがるものはせっせと口に運びました。鳥のヒナのように口をあーんと開けてとてもおいしそうにしていました。
足がむくんでいるので何度も足先から体の方向へ、「リンパマッサージ」の真似事をしました。少しは心地よいようでしばらくうつらうつらするのでした。
・・・介護のことで実は父とうまくいかなくて、明らかに母の病状が進んでいるのに訪問看護を呼ぶのを嫌がったり、母のために作った料理に普段の食べ物と違うと文句を言ったり、月曜日くらいから明らかに父が私を疎みだし、何かあるごとに怒鳴られていたので、2日の長岡の花火の中継を見ながら、この大事な時に心ひとつにして母を助けられない口惜しさと、ものの道理のわからない父の攻撃に耐えながらひとり母の看取りと闘わなければならない不安に押しつぶされそうでした。
土曜日の午前中は弟夫婦が来てくれて、母の手を握って弟が泣くのを、母にしたらそれこそが自分の寿命の尽きる時が近いとわかったのでしょうが、それでも息子の思いがとてもうれしかったのでしょう。声にならない声とジェスチュアで(めそめそ泣いてあの子はしかたないね)と弟夫婦が去った後で言っていました。
むくみがあり水分摂取は少ないのに、なぜかトイレをしたがり、午後になってもまたポータブルを使ったのですが、体を支えるのが辛そうでした。
その後、ベッドに体を横たえながら、なぜか目のまわりに手をひらひらとするので、どうしたの?目がかゆいの?と聞くと、(ねむい・・・いや、ねたくない・・・)と言いました。「でも、眠かったら寝た方がいいよ。ちゃんとそばにいるから」と言うと、ゆっくり目を閉じ休みました。
・・・今思うとあれは、眠かったのではなく、意識のレベルが下がり、死に向かいつつあるのを母が悟り、それを嫌がったのかもしれません。
2時ごろ、父の食事の支度をして食べさせ、片づけを終えて、二人で母のそばについていたら、母がまた起きて、砕いた氷を欲しがるのであげました。
それから父がシャワーを浴びに行っている間、私が付き添っていましたが、眠っている様子が明らかにこれまでと異なり、手を握ったり足をさすったりしても全く目を開けないので怖くなりました。
父が居間に戻ってきた様子だったので、「なんかおかしい。眠っているみたいだから声をずっと掛けなかったんだけど、さすっても手を握っても目を覚まさないから、お父さん声を掛けてみてよ」と言うと、父が来て、母の名を呼びました。母は起きたのだけれど、その時の苦悶の顔が、後から考えればあれが死相というものだったのかもしれませんが、あの時声をかけずにいたらもっと安らかな死に方だったのかもと悔やまれます。
母は起きて、苦しそうに喉が渇いた素振りをしたので、父はイチゴのみぞれを取りに台所に行きました。寝ていればいいのに母は起きたがって、私が支えてベッドの縁に座ったのですが、急に(おしっこ)と言い出して、私は父に「おとうさん、みぞれストップストップ!おしっこだって!」と声をかけ、介助してポータブルに座らせたのですが、座りながら体が前傾してきます。それまではトイレットペーパーは自分で使えていたのですが無理そうだったので「私が拭こうか?」と言うと(うん・・・)と言い、きれいにしました。
ベッドに寝かそうとするとますます虚脱した様子でやっとのことで寝かせ、そこへ父がみぞれをもってきたので「お父さん、あんまり飲み込む力ないみたいだからちょっとにして」と言うや否やみぞれを流し込んでしまい、そこから母の喉が鳴りだしました(喘鳴というようです)。
そして、今トイレを済ませたばかりだというのにまた(おしっこ・・・)と、とても嫌そうに身の置き所がないような様子に身もだえするので、私も父も焦って、「ちょっと待って!待って!」と言っている間に(もれちゃう・・・)・・・見る間に母は失禁してしまいました。
慌てて着衣を脱がして、それまで絶対嫌だと、その日の午前中にも尋ねて絶対嫌だと言っていたおむつでしたが「ママ、ごめんね。もう仕方ないからおむつするね」と言い、ぐにゃぐにゃして作業のしにくいエアーベッドの上でなんとかおむつをしたのですが、それから母が胸部を押さえ苦しみだしました。
父に訪問看護師さんを呼んでと頼んで、父が電話を掛けに行っているうちに、今度は医療用麻薬の注射器の機械のエラー音が鳴り始めました。母の苦しみは増すばかりで、そのうちに下顎呼吸が始まりました。
看護師さんが来て、注射のエラーを止めるのですがすぐにまたエラーが。血圧は90台まで下がっていて指先にチアノーゼが出て、指で測る血中酸素濃度は60台まで落ちていました。このままもう亡くなるのかと思いました。
下あごを大きくふくらませて呼吸をする様子を看護師さんに「下顎呼吸ですよね?」と聞くと肯かれ、喉のなる様子を「死前喘鳴なのですよね?」と聞くとこれも肯かれました。
苦しむ母にたださすってやるしかなすすべのないことは父にもわかったようです。
1時間ほど、そうしていたでしょうか。母の胸の苦悶が少しおさまってきたようでした。チアノーゼも真っ青から薄紫程度にかわりました。血中酸素濃度も80台まで回復しました。
亡くなるのは近いけれどもとりあえずまだ猶予ある状態になったので、急変時には呼んでくださいということで看護師さんは帰りました。
それが夕方6時ごろだったでしょうか。父が弟に連絡をしました。昼から出た仕事を終え出先でしたがすぐに駆け付けてくれました。弟が来る頃になると、母は受け答えができるようになっていました。そのうちに私の夫も駆けつけました。
弟は9時過ぎまでいたのですが、母の状態が落ち着いているのでみなでそうしてベッド周りにいるのもなんなので、すぐに呼ぶから、ということでいったん帰りました。
私と夫も10時くらいまでは枕辺にいましたが、夫の体が心配でもあり、私も2晩満足に寝ていなく体力を温存したかったので、父にまかせて仮眠をとることにしました。
・・・電話の音で起きました。
私たちはすっかり寝入ってしまい、父の呼ぶ声が聞こえなかったのです。父が携帯で私たちが寝ていた居間にある電話を鳴らし、飛び起きました。慌てて母のもとに行くと、父が母を抱きかかえ体を起こせずにいました。母は最期にトイレに行きたがり、そのまま父に抱きかかえられて絶命していました。抱いていた父は母が亡くなっていることに気付かず、私が抱きかかえてベッドに横にして、初めてもうこと切れていることがわかりました。
・・・さっきまで意識もあり、弟夫婦が退去するときにひらひらと手を振って見せた母が、死者の顔になっていました。
これが在宅看取りというものか。ぽっかりと生気の抜けた、本当にこの世の誰よりも一番私がよく知っていて、愛しいと思いまた憎みもした母が死者となったその顔を、多分私は一生忘れないでしょう。
それでも、おむつは絶対嫌だと言って、可哀そうにはかせはしたものの、その中で決して用を足さなかったこと。最後の最後まで意識があったこと。亡くなるその日まで口に物を入れられたこと。願っていたようには痛みも苦しみも取ってもらえなかったのかもしれないけれど、自宅で気ままに過ごしながら死を迎えられた母はベストではなくともベターだったのだと思っています。
私が撮った写真を遺影にして、弟が万事手配をしてくれた無宗教の葬儀で見送りました。弟の仕事関係の方々からお花をいっぱいいただき、棺の中は小さい母が見えなくなるほどの花でした。花が好きだったから喜んでいるでしょう。
棺の蓋が閉まる前に、母に「またね」と言いました。
私はしばらくこちらで、母のいない自由を謳歌します。そっちに行ったら仕方ない、また娘になってやります。