気温が高めという予報だったから、昼前からサクラソウの植え替えをした。
八重の「舞紅葉」という品種が瀕死状態(泣)。一鉢全滅したのがあったけど、それはよく殖える品種で同じものが別鉢で2つあったからOKだった。
ホトトギスも植え替え。キイジョウロウはずいぶん殖えた。タカクマも立派な芽になっていた。
オダマキの植え替えもしたかったのだけれど、思いのほか冷えて疲れちゃったのでまた今度。
午後はこたつに入って暖まりながら本を読んでいたら眠くなったのでこた寝。母が死んだあとずっと昼寝の習慣がなかったが、この頃なんだか昼寝できるようになってきた。
クレマチスも植え替えしないとなぁ。
話変わる。
関西ローカルの朝の情報番組で星占いのコーナーがあって、毎朝、何となく見る。
それからEテレの0655月曜日のたなくじ(&たぬくじ)も見る。
「運がいいとか悪いとか」なんて歌の文句もあったけれど(古)、未来という概念が人間にはあるので、それをあれやこれや考える時に「いいのか、わるいのか」先んじて知りたいという気持ちが、占いというものを存在させている。
暮らしの上のほんわかしたニュアンスとしてだけ、私は占いというものを用いている。垂れ流すテレビの情報の一つとして、占いを受け取るのは、だから別段嫌いじゃない。でも、信じているかというと否だ。テレビで見た占いがよければ、「やったね!」などと言うし、悪ければ「あーあ」などと言うけど、だいたい何分か後には忘れてしまう(この頃はとみに頭が悪いのでなおさらw)。
それでいいだろうと思うし、むしろそうでなきゃいけないんじゃないか。
先々週の分だったか、星野源のオールナイトニッポンをタイムフリーで聴いていて、リスナーからのお便りに「水瓶座AB型(星野源の星座と血液型)の今年の運勢がいいそうです」などいうのがあって、それを紹介しつつ、「基本的に占いはそんなに信じたりしない」というようなことを話していた(彼らしく、「そういうことで生活をしている人も思うので占いの存在がダメとかそういうことではないのだけれど」とことわりながら)。
長い下積みを経て、尋常ならざる努力をして、報われてきつつあるときに死病に倒れて克服した、というような人であり、また、他者と関わることの素晴らしいこともおぞましいことも並みの人よりはるかに多く経験してきただろう人だから、何よりも自分自身を恃みにして生きているのだろう。
その経験が、紅白での「うちで踊ろう 紅白ver.」の歌詞に現れているのだろう。
【NHK紅白】星野源『うちで踊ろう(大晦日)』フル・バージョン
「生きて踊ろう 僕らずっと独りだと 諦め進もう」
私はこの歌詞に本当に感謝している。
他者との関わりにこれまでずっと苦悩してきたけれど、それがコロナパンデミック下ではむしろ常より楽に感ぜられて、後ろめたかったのだ。
いいのだ。今だけでなく、人はずっと独りで、それは受け入れなければならないことで、それでも生きて進んでいいのだ。
他者と関わり合うことが好きでも嫌いでも、上手でも苦手でも、結局は人間は独りで、自分の機嫌は自分で取り、自分の不安は自分で解決しなければならない。それは誰でも同じだ。
諦めて、自分で立って自分で生きていくところから始めないといけない。
そんな覚悟を歌う人ならば、占いを必要とするわけもない。
人には常に未来に対する不安があって、それを感じないように考えないようにいろんな抜け道を思いつく。
占いもきっとそうだし、人がただ集まるのも、酒を飲んだりするのもその方法だろう。
そのことの是非は言わない。言う権利も資格もない。
でも、私は、独りだとちゃんと諦めて進みたい。