昨日は夫が休みで、午前中に鳥活と買い物を済ませてお昼はテイクアウトですき屋のスキミックスというのを車の中で食べて家に帰ってきてから、庭を二人でうろうろしていたのだけれど、夕方になってご近所の奥様方が「〇〇さーーん(〇〇には姓が入ります)」と呼ばわる。
「蛇がおるねん」と。
我が家は夫はもちろんのこと、妻の私も爬虫類でも両生類でも虫でも全然大丈夫、ということがご近所(特にお隣の奥さん)にはよく知られていて、何かにつけて頼りにされたりする。庭仕事用のゴム手袋をつけて夫と二人見に行った。
家からちょっと離れた路面のことらしい。蛇が道にいて動かない、と、案内しながら聞かされる。
なるほど道にいる。まだ小さいアオダイショウの子ども。なんだか動き方が変。よく見ると、腹の下の方が裂けていて内臓や肉がはみ出ている。多分何かに轢かれたんだろう。
私はゴム手袋をしていたのでそのまま蛇を手に取った。嫌がって逃げようとする。
「怪我してます。それで動かれへんかったみたい」と言うと、「もう公園にでも埋めたったら」と言われた。
こんなときは夫と阿吽の呼吸で話さずともたぶん同じことを考えるとわかっているから、いや、家に持って帰ります、まだ生きてるし、埋められへん。ととっさに答えていた。
家に帰って、小さな段ボール箱に犬のトイレシート(まだ大量に家に残ってる)を敷いて、中に入れた。
何もできない。治してあげることも、安楽死させることもできない。ただ置いておくことしかできない。それでも、そのままにしておけないし、埋めることなんてできない。
出入りしない和室の隅の暗いところにその箱を置いた。
蛇は最初は、文字通り「のたうち回っていた」。でもしだいに動きが鈍くなって、夜9時ごろにはぐったりとしたまま、触るとかすかに動くだけになってしまった。
そのまま、昨夜は就寝した。
死というのは、まったくただ一人、ただ一匹の内側にだけあるもので、誰にも手出しできない、だれも代わりに闘ってはあげられない。
それを目の前にして、どんなにその痛みや苦しみを思っても、何もわが身に帰することはできない。
死は、誰だってその身に死を内在させているものなのに、他者の死は生者の手には届かない。
ただ見ているだけ。どうしようもない。しようがない。
也々の死、母の死を経て、私が一番学んだことは「しようがない」。
どれだけ身の内を焦がそうと悲哀の嵐に乱されようと、つまりは「しようがない」ということだった。
朝、蛇は死んでいた。
夫と二人で、公園に埋めた。
何もできなくて、ごめんね。
