シヤワセ?

投稿者: | 2022年9月16日

2ヶ月近く、寝ても寝ても眠くて、だるいと訴える父で、訪問看護師さんにも在宅医療の先生にも毎回それを告げていて、それでも骨髄異形成症候群からくる血球減少は小康状態を保っていて、むしろ赤血球はかなり増加していたから、その眠気やだるさは他の疾患からくるものではないかと、お医者には詳しい血液検査や在宅で使えるエコー検査など思いつく限りの検査をしていただいた。そして、若干の肝臓の障害が認められそれが輸血による鉄過剰症のためと考えられたので、鉄キレート剤の投与が始まったばかりだった。
鉄キレート剤は一般に余命1年を切る患者には推奨されないのだとかで、父の余命は少なくとも2年と予測されていた(担当医と医大の先生との話し合いで確認されたばかりだった)。
毎日辛がっている父ではあったけれど、これは一過性のものだと思っていた。
鉄キレート剤で父のだるさは少しはマシになって、また少し歩けるようになって、トイレの失敗も減って、その先に骨髄異形成症候群の病状の悪化があってさらにその先に父の死がある、という認識だった。だからそれまでバイクで実家通いはせねばならないし、泊まり掛けで介護する日々もあり得るんだろうと覚悟していた。
「ラスボス」はこれから!
…のはずだった。

今思えば、異様なだるさや眠気は脳の症状だったのかもしれない。少しずつ、小さな出血が重なり、8月31日の未明にとうとうフェータルな出血に見舞われたのかもしれない。
なんて、私は医者でないからわからない。
お医者も看護師さんも予見できなかった。でも起こってしまえば、それは十分起こり得ることだったのだ、としか言えない。
ただ一人、父自身が、自分の体のどうしようもない異変に気付いていて、医者が看護師が私が「じきに良くなるから」と言うのを不審に感じ、自分の辛さを理解されない孤独さを胸に抱いていたのかもしれない。
もしそんな思いをさせていたのなら父が哀れでならない。

それでも、父の辛さも限界だったと思う。
大家族で育ち、人一倍さみしがりやの父が3年も独り暮らしをしたのだ。だんだんと体をもぎ取られるようにできることが少なくなって人に頼らずに暮らせなくなっていったこと、どれだけ歯がゆかっただろう。
先日の、回覧板を次にまわすのに難儀をした時に「生きているのかイヤになってきた」というのが掛け値のない本音だったろう。
「最期まで家で普通に暮らしたい」というのがずっと父がケアマネージャーさんに言っていた希望で、でも、病気か進めばそれは叶わないだろうと私とケアマネさんとでは話していたが、父は願った通り亡くなるその日まで、自分の体ひとつで働いて持った家で気ままに暮らした。倒れて命のある間に看護師さんに見つけていただいてこのご時世に病院に入院できて最期の時を迎えた。

母がなくなったのが3年前の8月で、父も滑り込みセーフで8月中に逝った。
弟も、父の身内も、母が呼んだのだろうと話していた。
ことある事に「はよう呼びにこいよぉって言うてるのになぁんも言いよらへんのや」と言っていた。

父は自分の幸福に気づかないタイプだから、今でもちょっと不満げな顔をしているかも知れないけれども、案外、シヤワセやったんやで、と私は思ったり、思わなかったりしている。