明け方、夢を見ていた。也々の夢だった。
私が出かけてきて家に戻ってくると也々が待っていた。夢の中で私は、もうずっと也々を散歩に連れて行っていない、と気がついて、おしっこがたまっているに違いない、と思って、犬を家から連れ出しておしっこをさせた。
それから、水もずいぶんやっていない、と思って水道から水を汲んで来ようとしたら、器に入っている白く濁った水を見ている間に飲んでしまった。すぐに器を取り上げてきれいな水を汲んできたのに、也々は飲もうとしないで、見ている間にふらふらと座り込んでしまった。「ああ、也々が死んでしまう!私がちゃんと世話をしなかったからだ!」と思ってうろたえているうちに目が覚めた。
也々はもう二度と死なないのにな。
あんな喪失を繰り返すのはもう無理だ、って、心に沁みついているから、こんな夢を見るのかもしれない。
也々にしても母にしても父にしても、できたことよりできなかったことばかり考える。
家の片づけをしていて出てきた色付き無地のタオルを3枚を、雑巾に縫おうと秋の内から置いといてずっとそのままだったので、今日はそれを縫って、うさぎさんの柄の100均のガーゼタオル1枚も台布巾に縫った。
縫物のお供にBSプレミアムを付けていたら、「ハイビジョン特集 決定版 きもの大百科(2006年)」という番組で、半分聞きながらだけれど面白く見た。
昨日ちょうど、twitterの私のタイムラインに、着物を着た時の帯揚げのきれいな処理についてのtweetが流れてきて、私はちゃんと着付けを習ったことがないから母がしていたのと同様の処理の仕方しか知らず、自分の着付けは見る人が見ればずいぶんだらしなく見えていたのかもしれないな、なんて思って、着物に入れ込み存分に楽しむことなど私にはムリだなぁと恐れ入っていたので、やはり着物というのはどの道にも通じる奥深さがあるのだなぁと感じ入った。そういう道を究めることはできないけれど、それでも着物をきれいに着ている人を見るのはいいものだ。
途中お昼ごはんをはさんで13時過ぎまで縫っていた。
これが成果。
この間実家に行ったときに、針箱を片付けようとして中を検めていたら、龍角散の缶容器の中にボタンが入れてあって、ゴミ分別のために一つ一つ見ていたら、金属のボタンがあった。