夫を鳥活にやり、駅前の産直に行って野菜をちょっと買ってきた。切り花も少し。
玄関のセンサーライトの電池が切れてしまい、単2電池3つで家にストックがなかったから、買ってこなければと思いつつ行けていない。
電池交換がめんどくさいのでいっそのことコード式のを買うかとも思うのだが、防雨タイプの延長コードの10mくらいのが要るので両方買うと6000円くらいになるし、ずっと思案している。
これからは、年寄りの家はカジュアルに狙われるようになるだろうと思っている。
やる気になれば防犯ライトをつけようが監視カメラをつけようがやられるのだろうと思いつつ、まだそこまで世の中が壊れていないうちは有用だろうと。
さて、いつまでか。
「ばけばけ」。
主題歌の歌詞は好きなのだけれど、私の好きな箇所は、実はものすごく危うい歌詞なんじゃないかと思っている。
「日に日に世界は悪くなる」と「野垂れ死ぬかもしれないね」。
これは公共放送たるNHKが、朝から世に放っていい文言であるのかどうか。
私は日本国憲法というのは、この国に住む人をもう決して野垂れ死ににはさせない、という誓いだと思っている。
それが、この戦後80年という今日(こんにち)になって、極めて蔑ろになっている。
今現在、野垂れ死にすれすれのところで生きている人がいる。あるいは今飢えている人がいる。
そんな人に届くはずの生活保護について、新しく与党の代表になった人間が「さもしい顔をして貰えるものは貰おうと」といった言で攻撃し、役所は門前払いを繰り返し、本当に必要な人の2割しか受給できていない(しかも受給できた人にすら出し惜しみの減額までする)ことは知らぬふりという現実がある。
それでも、この国には「健康で文化的な最低限度の生活」を受ける権利をうたう憲法がある。
だから個々人が心のうちで「野垂れ死ぬかもしれないね」と思っていても、公共放送がそれを是認してはいけない。
「野垂れ死ぬかもしれないね」が世の中の市井の人の当たり前の感覚になってしまったら、憲法は壊れる。
公共放送は憲法の瑕疵のない理念をこそうたうべき。誰一人野垂れ死んではいけないのだとみなに知らせなければならないはず。
あの心地よい歌を、胸をざわつかせながら聞いている。
この国の壊れるのはどうにも止められないんだろう。
