月曜日に、BSで再放送していた「カーネーション」が終わってしまった。
家に、初回と初再放送時に録画した全話をDVDに焼いた、私製DVDボックスがあるんだけど、TVで放送されて、それを録画せずにオンタイムで見て、Twitterでハッシュタグを検索して知らない人の感想を読むのが何よりも面白く、だから、いつだって気が向けば見られるくせに再放送が終わったとたんに脱力と寂寞感がはなはだしいのである。
Twitterのタイムラインで目立ったのは、本放送から11年経って視聴する人自身が年を重ねたことからか、前回見た時と別のところでの感動が深まった、という論で、私自身も、実際に母を亡くして後見た主人公糸子の臨終は、感動には変わりはないのだけれども以前とは違うところに気が付き心が動かされた。
本放送時には大いに晩年糸子への夏木マリの起用にぶーたれたものだが、やはり、尾野真千子には表現し得ない「老い」の姿が厳然とあって、それを夏木マリはちゃんと演じていたのだとも今回は気付いた。
朝ドラに「最高傑作」の呼び声高い作品が何度かありはしたが、私には「カーネーション」を超える作品はあったように思えない。糸子がずっとずっと、私の心で生きている。私の生きている時間の中に、架空の糸子という人を造形してくださったすべての方にお礼が言いたい。
私は、母の写真を一切飾ったりしていない。
6年前に死んだ犬の写真はいたるところに飾ってあるのに。
「しずかちゃんとパパ」というドラマを見ていて、CODAとして生まれ育ってパパを介助することを天命のようにしてしまったしずかちゃんを自分に重ねている。
私は母が死ぬまで、母を扶け母を護ることから抜け出すことができなかった。
夢どころか、いろんなものを持たないように生きてきた。自分で望んでしたことだけれどもそれが負担でなかったと言えばウソだ。それに、その私の人生に夫も引きずり込んでしまった。
だから、母が死んだとき、悲しみよりも何よりも、自由を得たことへのよろこびが胸を占めたのだ。
オハラ三姉妹(コシノ三姉妹がモデルである、「カーネーション」ヒロイン糸子の娘たち)が母を亡くして嘆くさま、何年経っても心の母と語るさまを見て、これが娘というものなのだな、と、母を亡くしてから初めて見た再放送で思ったのだ。
私は、自由が後ろめたくて、母の写真と語ることはできないのに。
可哀そうな、ほんとに可哀そうな母だ。
雪割草の病気が止まらない。
どうしたらいいのだろう・・・
もう、栽培を諦めろ、ちゅーことかいな。