はらちゃんも最高の離婚も終わっちゃった今、何を楽しみに生きていったらいいのやら…
いや、気を取り直して。
「泣くな、はらちゃん」は今クール一番好きなドラマでした。
それこそ「マンガ」みたいな設定でおもしろおかしく物語は進むのに、どのドラマよりも重いテーマを内包していて、押し付けるわけでなくさりげなく心に染み込ませてくれるような、本当に上質なドラマでした。
CGの技術が進んでいることや、メディアミックスのいろいろな手法が試されてきて成熟期にあることに加え、やはり「3.11後」である今しか作れないドラマだったとも言えます。
子どものようなあどけない心で現実世界のむごたらしさをテレビで知り涙を流すマンガ世界の登場人物たちは、「3.11」のあの時にライブで送られてくるあの恐ろしい映像の前になすすべのなかった私たちにとてもよく似ていました。
劇中歌の「私の世界」の歌詞に
世界中の敵に降参さ 戦う意志はない
世界中の人の幸せを祈ります
世界の誰の邪魔もしません 静かにしてます
世界の中の小さな場所だけあればいい
とあります。
この歌を最初に聞いたときに、「ひきこもり」とまではいかないまでもナイーブな感情を守護するために自分を心の奥深くに隔離して本当の気持ちを顕そうとしない現代人気質を具現化したのが越前さんなのだと理解しつつも、今現在近隣諸国と不穏な関係になっている世情をも暗に批判しているのかな、と考えました。
戦争は醜く悲惨で恐ろしいもの。だけど、争わない越前さんは、鬱屈した気持ちを登場人物に吐露させるマンガを描くだけの越前さんはそのままでいいのか。
回を追って周りの登場人物たちが越前さんに世界と関われとさまざまなアプローチで訴えます。そして最終話でははらちゃんが「世界と両想いになってください」と諭します。
世界と両想いになるには自分自身と両想いにならないといけない。そして世界には時には言いたいことを言ったりもしなければいけない。
今、争いが苦手な私たちはそれでも、自分たちが透明な存在でいられる場所では声高に誰かを攻撃したりすることを抵抗なく行えてしまっています。ネットの世界はとてもヒステリックだし、週末になると新大久保や鶴橋で朝鮮人は死ねとごく普通の青年たちがデモの隊列の中から叫んでいる。でも、そのひとたちがPCの前で中傷している対象とじかに接したらどうなるのか。死ねと言うその相手にただ一人の日本人として向かい合った時にどうなのか。本当はたったの一度もちゃんと向かい合い言葉を交わしあいしたことがないからこそ、易々と弱者やマイノリティをいたぶる言葉を使えるのではないか。そう、マンガ世界のユキ姉が「殺すしかないね!」と決め台詞を吐くように。
実は多くの日本人が今、世界と両想いになれていないのではないか。世界を片想いすることすらしようとしていないのではないか。
世界中の人の幸せを祈るにはやっぱり、私の世界に閉じこもっていてはダメでしょう?というメッセージが私の胸にはなんだかとても響いたのです。