カネとイノチ

投稿者: | 2012年7月21日

昔はこんなひどいいじめはなかったよねぇ…ということをよく聞き、いや、今も昔もいじめは変わらない…というのもよく聞き、しかし、私の生い立ちの中で見聞きし体験したいじめはたしかにもっとおとなしやかだったように覚えているのだけれど、よくよく考えて見ると、それは私の在った環境がそこまでのいじめと縁がなかっただけかもしれない。
と言っても、育ちがお上品だったからなんていうわけじゃありませんのよ奥様♪

むしろ逆。

私の知ってるいじめとこのごろ話題のいじめ(そして最近見聞きするいじめ)とどこが違うのかというと、まず、金の授受のあるなし。
私もたいがいいじめられたクチだけど、金をもってこいとは一言たりとも言われたことがなかった。いじめたこともあるがやはり金よこせという発想は皆無だった。それは、ウチが公営団地住まいのビンボったれだったから(いや相手側もそうだし)金の出所なんかあるわけないので求めようもないというのもあるかもしれないけれど、それよりなにより、40年くらい前の小・中学生にはそんなに金の万能感はなかったというのが大きい。
お年玉を貯金してるなんていう子もいたけど、それも何千円なんてかわいい話。毎日よく遊んだけれど金の要る遊びはなかった。駄菓子に何十円、張り込んで夏のハゼ釣りにえさのゴカイが百円。他愛ない。
今の子どもは一事が万事金だろう。ケータイを持ち歩き、ファストフードで買い食いし、何万もするゲームに汚されたら困るようなかわいいファッション。金がなけりゃ何一つも楽しめないように生まれつき飼いならされてる。

ただ、これは私の育ちがお粗末だからで、私と同じ年代の者でもお金持ちばっかり行くガッコの子女は金にまつわるいじめを確立してたかもしれない。それは私の関知するところでない。

それから、「死ね」というのもいじめでは聞いたことがなかった。
だいたい、そんな「とっておきの言葉」は軽々しく使ってはいざというときに役に立たない。
相手の存在さえ厭う言葉というのは、それだけ相手に強く深い負の思い入れがなければ使えない。すごく仲のいい子に裏切られたとか。
「死」が軽くなったのは核家族で身内の死に遭う機会がなくなったためか、ニュースで毎日あっけらかんと殺人事件を流すためか、それともゲームで殺したり殺されたり生き返ったりリセットしたりするためか。

私がいじめをじかに見聞きしたのは中学校どまりだから、私と同年代のものでも高校生くらいになれば「死」を道具に使うようなこともあったのかもしれないがとにかく私は知らない。

…私は知らないと書きつつも、でもやっぱり、40年前には金や死をいじめの道具に使うのはすごく特殊な人たちで、フツーのいじめではなかった、と思っていたりする。
いじめというものの本質は変わらない、子どもの本質も変わらない。でも、子どもを取り巻く社会は変わってしまい、そのためにいじめも変容したんじゃないかと考える私はシロウト。

だってそうじゃない?
16日のエネルギー・環境政策に関する意見聴取会で中部電力の課長さんが言った言葉。
「去年の福島の事故で放射能の直接的な影響で亡くなった人はいない」
「原子力のリスクを過大に評価している。このままでは、日本は衰退の一途をたどると思います」
あんな未曾有の事故が国内であったのに同じ電事連の会社の課長が臆面もなく、「命は軽く、金は重い」とのたまうのだもの。
子どもに「カネとったらアカン、シネいうたらアカン」って言っても聞くわけないよなぁ。大人が笑いながら率先してるんだから。