べくれるかんれん

投稿者: | 2011年10月14日

世田谷の件はホッとした。
世田谷であの数値なら東京中もうアカんやんと思ったので原因が別でよかった。まぁ怪事件ではあるが(イタズラならまだましで、「別に原発だけが被曝の原因じゃないぞ」って人々に印象づけるようなインボーだったらコワイ)。

東京の山の手だからといって騒ぐというのもなんだ。ホットスポットじゃなく、まんべんなく同じような線量のところで生活してる人が現にいるのだから。

新潟の航空機モニタリングが気になっていたが12日に結果が出てたみたいだ。
文部科学省による新潟県及び秋田県の
航空機モニタリングの測定結果について
魚沼は東京東部と同程度汚染されているようだ。結構汚染されている群馬北部と近いのでどうなるかと思ってたのだが。

雲は群馬から長野、岐阜の方に流れたのだろうか。

震災の後、「何かしなければ」とあせったり悩んだり迷ったりした人は多いと思う。その時の自身のこころもちを考察したある人の日記とそのコメント欄を読んだ。
あるコメントが目を引いた。
その人が考えるところによると、「何かせねば」と思った人というのは、「何かすることで自分のイメージアップになると思った人」か「周りが何かしているので自分も何かしないと恥ずかしいと思う人」のいずれかなのだそうだ。
その2つにさしたる違いは感じないのだけれども、それにしても寒々しい、というか貧しい。
きついことを言わせてもらうと、人間はよいものだとクチにすることがかっこ悪く、わるいものだともっともらしく言うことがクールに見えるだろうと思う点で、カレは爆音立てて路上を走るボーソーゾクと変わりない。
ちょっとわるいのがかっこいいのさ~~って。
ずっと一日中いいひとはいないだろうが、人間は時と場所を選んであるいは思いがけずにすごくいいことをするものだ。

「何かしなければ」について、どうしてそう思うのかというのを前に少し考えた。
本当は書いたりクチにしてはいけないことだけれど敢えて言うと、私はとりあえず震災以前からはなれずこの土地に生活していることを運がよかったと思っている。
あんな津波に遭わなかったし、水もガスも止まらず計画停電も関係なかった。家も壊れなかったし、あたたかい布団で寝られ夜は風呂に入り、いつもと同じ食生活を送れた。相も変わらず毎日2回犬に目薬をさしイグアナの注射器でジュースを飲ませられる。フクイチから距離もあるから被曝も今後はわからぬがほとんどなきも等しい。
今現在被曝している人、不自由な暮らしを余儀なくされている人、生活のめどが立たない人…震災と原発事故にもたらされたあらゆる不幸を、本当に気の毒に思うのだけれど、その心の裏にへばりつくように、「これが自分のことでなくて本当によかった」と思う気持ちがあるのを否定できない。
その裏側の気持ちを打ち消したいけれど、でもあらゆる不幸の場所を自分の居場所と出来るのかといえばそれは決してしたくない。どんなに善意を自分のうちに認めたいと思っても、所詮は人の不幸には寄り添えない。ただただ自分のエゴを知るだけだ。

だから、「何かをしたい」という思いは、私が自分の中に認めるものに限って言えば、自分のエゴへの免罪符なのだろう。
ひどく醜く、汚いこと。でも精一杯のこと。