NHKはせっかくお金を払っているのにすっかり御用報道局なので、ニュースは災害時くらいしか見ない。
もっぱら、BSプレミアム専門。
朝は7時までは地上波民放の関西ローカル番組を見て、7時からはBSプレミアムだ。
7:15からは「てるてる家族」。本放送当時も思ったけど、「ブルーライト・ヨコハマ」の歌が下手すぎて、どうにかならんのかとこのところ毎日イライラする。
「とと姉ちゃん」については言いたいことがある。
星野家の茶の間にある図鑑である。
昭和31年以降なら確かに、「小学館の学習図鑑」は発行されているのだか、あの茶の間にあるのは新装版である。
まあ、重箱の隅つつきだけどね。でも、「時代考証はきちんとやっている」というのがウリなのだし、よその出版物とはいえまがりなりにも出版社の話なんだからもうちょっと考えてほしかった。
で、先週から太巻いや赤羽が出てきて、ねちっこいいやがらせ場面が増えて見るとげっそりするのと、こいつ何者?と思っていた新聞記者が絡んできたのとで、あ、それに、ラブストーリー展開も、なんだか見るのがしんどい。
木場の人たちがテキトーな言葉でしゃべっていたのも見ていてむしゃくしゃしたけど、だからつまり、「ドラマなんてテキトーに作っておけばいいんだ」なんて思いを見せられているようで。
まあそれはともかく。
主題歌の「花束を君に」を最近フルコーラス全部聞いたのだけれど、中で出てくる「淋しみ」という歌詞がどうにも脳の中でおさまりが悪い。
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無くただ
これはどうして「淋しさ」ではいけないのだろう??
「悲しみ」とか「楽しみ」はおさまりがいいのに、どうして「淋しみ」とか「うれしみ」は気持ち悪いのだろう。文法的には間違いではないのに。
他人さまはどういう意見を持っているのかと検索してみたら、いくつか考察していらっしゃる人がいた。
でもいまいち納得できない。
いちばん説得力があったのは、「~み」のもとになっている「形容詞+む(淋しむ、悲しむなど)」の動詞の形が古く、あとから「~がる」という形ができて、強い語感なのでそちらばかりがつかわれるようになった。「悲しむ」「楽しむ」などはそれ以前によく使われるようになっていたので現在に残った、というお説かな。
私は国語学を習ったことがないのでわからないけど、「悲しみ」とか「楽しみ」は自然にわく感情であることもあるけれどそれだけじゃなくて、意識的にそうなろうとするものだからなのじゃないかな、とちょっと思った。
楽しくなりたいと思う気持ちは誰でも持っているし、楽しくなるために何かの行動をとる努力をする。
悲しむということも、人間は本質的にカタルシスを求めているから、別れの時、誰かが死んだとき、自分から悲しい状態に自分をもっていこうとする。
楽しい物語を誰でも好むし、また同じように悲しい物語も好まれる。
でも、淋しい気持ちを自ら求めることがあるだろうか。
うれしい気持ちには誰でもなりたいものだけれど、うれしくなることというのは求めて得られるものだろうか。
そうではないと思う。淋しい気持ちもうれしい気持ちもたいてい環境からもたらされるものではないか。
・・・こう書いてみたものの、きっと「これは違うよ」という形容詞の例もいっぱいありそうだ。
歌の詞というものは、おさまりだけではいけないのだろうというのもわかる。違和感の中に新しい表現を求めていくことも詩のありようだと思う。そんな風に、おさまりの悪い「淋しみ」を脳みそのなかで一所懸命なだめている。