寒いからこたつと仲良くなりたくて、木曜日から金曜日にかけては本を3冊読んでしまった。
1冊目は、瀬尾まいこ「傑作はまだ」。
外界とほとんど接触を持たない小説家の男のもとに、生まれた時から25年間一度も顔を合わせたことのない息子が訪ねてきて同居。コンビニで働く息子は人当たりはよいが「おっさん」と呼ぶ引きこもり同然の父とうまく距離感をもって接し、地域社会にも溶け込んでいき父を次第に外界へ連れ出す橋渡しとなっていく。
学生時代の父が酒の席の過ちでほとんどゆきずりの母に孕ませて以後、月々の養育費の礼状に添えられた写真以外に息子のことをまるで知らない父が、次第に息子に興味を持ち始めるのだが、自分のことをあまり語らない息子。二人の共同生活の行く末は・・・
ネタバレになるけれど、軽い女のように思われていた母に実は思慮があり、私生児を育てながら隠れて父の実家には嫁然として振舞っていて、外界に興味を持たない父の作家活動を息子とともにかげながら応援していた・・・という、いうなれば都合のいい夢物語ではあるのだが、でも、何十年も引きこもりであった父が他者との関係が自分にもまた必要なのだとさとり、作品のマンネリさえもその出来事で打破していくさまは、目の前が開けていくようなうれしさがある。
2冊目を飛ばして、3冊目は、木皿泉「カゲロボ」。
ちょっとSF風味。日常を送る人たちの中に「カゲロボ」と呼ばれるアンドロイドが正体を知られぬように存在している。誰かの不正を見張ったり、犯罪の証拠をつかんだりしている。
そんな都市伝説のある社会で生きている人たちのショートストーリーの連作で、1作の中に別の話に出てきた誰かがまた顔を出し、通して読むと一つの物語だとわかる。
不気味な始まりだけれど最後まで読むとああ、そんな世の中だといいなと思えるような木皿泉テイスト。
でもそれもやっぱり夢物語なのだな。
飛ばした2冊目。
中島京子「夢見る帝国図書館」。
小説家志望の女主人公が、たまたま上野のベンチで出会った白髪のショートカットの小柄な女性。
その女性と彼女の数奇な生い立ちの謎をめぐる15年間に、コラム的にはさまる、湯島から上野に移転し戦後国会図書館となる「帝国図書館」の「金と本に泣かされた」歴史を織り交ぜ、亡くなった女性の散骨が終わるまでが描かれる。
誰にでも公平に開かれた図書館を西洋にならって作りたかった人たち。富国強兵策にそれはいつも押しつぶされ貧弱な図書館しか持ち得なかった日本であったけれど、それでもどれだけたくさんの文化人たちがこの図書館の恩恵を受け、図書館を足掛かりに多大な努力をし、明治大正昭和の文化を作り上げることとなったか。また上野という地がその間戦争や災害に遭い市井に暮らす人をどんなふうに受け止めてきたか。
台東区上野が生まれた時の本籍地だった私には知らない故郷の歴史を知るようなゆかしさがあった。
故あって自身の娘を棄てざるを得なかった女性。
棄てられたことで、おそらく初老になるまで自己否定感を持ちながら過ごしその反動で猛々しく自らを表現し支配することを愛情と見誤っている娘と、それに反発して自由に生きたいと願う孫娘。
散骨してほしいと願って亡くなった女性に、死んでも勝手なことをとそれを認めない娘。その娘を説得しようと孫娘が発した言葉に、私は嗚咽が止まらなくなってしまった。
「ママのことがだいすき。生んでくれてありがとうって、言ったんです」
棄てられて、自分の価値を評価できずに生きてきた人への、これはパワーワードなのだと、まだ若いこの孫娘はどうして思い至ったものだろう。
今年の8月3日の朝、ちゃんと言葉が伝わる時間はもうないかもしれないと思ったから、自分の本心なのかどうかわからないままだったけれど、母に「産んでくれてありがとうね。大好きだからね」と言った。
ハグした私の頭を母は、イイコイイコしてくれた。
あの言葉は、母にどうひびいたのだろうか。私にはわからなかった。今もわからないけれど、でも、母が自分の人生をちょっとでも肯定できるタネにもしなれたのだとしたら、もしそうなら、うれしい。