貧しい小作の娘。家族みな文盲の娘が本の世界に憧れてその世界に飛び込むという話。
私の母は掛け算ができないし割り算も分数もわからない。現在毎日メールを寄越すけど「を」が使えないし、「っ」「ゃ」「ゅ」「ょ」の使い方もわからない。
私が子どものころ本は貧しいながらも月に1冊は買ってくれた。これは主に生みの父が。だが、子どもに「これがよかろう」と考えて買ってくれたものではなかったろうと思う。特に小学校に上がったばかりのころは物語本ではなく図鑑ばかりだった。
物語本(「母をたずねて」だった)を初めて与えてくれたのは祖母で、物語本の本当の面白さを教えてくれたのは2年生で転校した先の担任の教師(増田増子という冗談のような名前の先生だった。結婚によって名前の漢字が重なってしまうというのはある種喜劇なのだとそのころ理解したが、まさか長じて自分も同じ憂目に遭うとは)だった。
学問ができると思考に言語が与えられる。「好悪」しかないとされる生き物としての感情に深く広い味付けがされるようになる。
こうして毎日何の苦もなく文章をつづることができ、たとえチラシの裏の走り書き風情のことでも、思考や感情を記録することができるようになったのは、私が自分の出生した世界から学問のある世界に飛び込むことができたからで、それは幸福なことではあるのだけど、ただ、本を読めば読むほど、私は母のいるところから遠く離れて行き、それに加えて、生まれたときから学問のある世界で育ってきた豊かな人々の中にいても真に交わることができないという苦悩も味わってきた。
花子は立派な翻訳者になる人で、自宅警備員(笑)の私とは違うのだけれど、それでも、どうしても乗り越えられない階級性に苦しむことはなかったのだろうか。
四月馬鹿だというのに気の利いたことも言えんですまんのぅ。