墓じまい覚書

投稿者: | 2025年11月1日

去年、脳梗塞を起こして半身不随と高次脳機能障害になった義弟(夫の弟)を見舞いに埼玉に行ったのだが、その時に義弟の妻から墓じまいの相談をされた。
父母の墓は同じ市内だが交通の便があまりよくないところにあり、もう義弟一家には墓守はできない。また、義弟の一人息子は難病で障害年金をもらっている身の上で墓は重荷でしかない。我が家にもご存じのように子孫はない。
満場一致(?)で墓じまいをすることに決まった。
ちょうど4年前に夫の母方の従兄が急死して、遺言によって海洋散骨をしたのだが、信心深い義弟はそれから墓への固執を失くしたようで、もとより夫も私もこだわりがないことから、父母の骨も海洋散骨にしようということになった。
その手続き全般は我が家が引き受けるのはまあ当然のことである。

夫も今年の6月くらいまでは職安のことなどで気を取られていたので、私もせっつくことはしなかったのだが、それが終わってからは「そろそろ考えなあかんのちゃう?」と言い言いし、ところがあの猛烈に長い長い夏の暑さで日々暮らすのだけでやっと。ようやく涼風たちはじめても一向に動かない夫にしびれを切らし私の猛「口」撃の開始。
重い腰をあげて夫10月初旬に下調べをはじめ、お寺に電話をしてみると意外なことにスムーズに話が決まり、役所関係や散骨業者さんにも相談して、10月27日に埼玉行きを決めたのがその10日前、ということになった。

27日は朝5時に自宅を出発。西名阪-名阪国道-東名阪-伊勢湾岸道-東名-首都高のルートで午後2時過ぎにお墓についた。
お寺に挨拶をして、離檀料と回向料を渡し、墓掃除をしておこうと思ったらすでに(おそらく石材屋さんが)きれいになっていて、途中で買った花だけを供えた。
義弟の家からでは動きにくいのでホテルを取っておいたが、チェックインを5時にしていたのでフロントで早く着いた旨を伝えたらチェックインできたから、しばらく休んで、その後近所のショッピングモールで晩御飯の買い出しをしてホテルに戻って食べた。
28日は朝9時に閉眼供養で、15分ほど前にお寺についたら石材屋さんがすでに準備万端整えて下さっていて、住職もすぐにいらっしゃり、法要はすぐに済んでしまった。お昼ごろ義弟の家に行く約束にしていたのでいったんホテルに帰り、ラフな服に着替えて、11時過ぎにホテルを出、近くのケーキ屋さんに行って義弟の好きなモンブランを買い、お昼前に義弟の家に行った。
お骨を義弟の家に持って上がり、手を合わせてもらって、しばらく雑談などして1時前に辞去。
散骨業者さんは車で1時間ほどのところで2時に予約をしてあったので車で走る。業者さんにお骨を渡し費用を支払い、最期の別れに祭壇に祀っていただいたお骨に手を合わせて業者さんを後にした。
そこからはホテルに直に帰らずに大宮のそごうへ。晩御飯にどうしても食べたいものがあったので。無事ゲットして、ホテルに向かい走る。ホテル近くのGSで洗車をする。往きの東名でフロントガラスに虫が当たって汚れがひどかったので。
きれいになってホテルに帰還。ちょっと休んで晩御飯。


これですわ。シウマイ弁当。ダイスキ。
去年は帰り道の東名足柄SAで買って、三重の東名阪御在所SAで食べたのだったけれど、今回は帰り道中央道にすることにしたのでこの日のうちに食べることにしたのだ。おいしかった~
29日。朝早く起きてホテルの朝食ビュッフェ(部屋に持ち込んで食べてもOK)をかっこみ、7時にホテルをチェックアウト。
途中SAに立ち寄り休憩や見物、買い物しながら、東北自動車道-圏央道-中央道-名古屋高速-東名阪-名阪国道-西名阪のルートで午後7時半ごろ帰宅。

ハプニングもトラブルもなく、無事墓じまいを終え、家に帰ってこれてよかった。
母に守ってもらえたかな?

すごいぞオレ

投稿者: | 2025年10月30日

実は・・・
月曜日から水曜日まで、埼玉に行っていた。
夫の父母の墓の墓じまいをしてきた。
くわしいことはまた。

帰り道、東京は道路規制だということで東名は使わずに、埼玉から圏央道というのを使って中央道へ出て、山梨・長野・岐阜を通って帰ってきた。
往きは海沿いを通って、帰りは山を見い見い走り贅沢な旅だった。

ところで。
中央道から見た景色。

この山々。


クローズアップ。


さらにクローズアップ、の矢印。

これ、「槍ヶ岳」じゃない?と思って走る車中からスマホで撮った。
テレビなどで見る形に似てたから。
でもあんまりちっちゃいし、違うのかなぁと。

帰宅して中央道から見る山の景色をググったら、この連山は北アルプスでとんがってるのは確かに槍ヶ岳だった。
うわーーすごいなオレ。槍ヶ岳見たんだ!

ゴールデン

投稿者: | 2025年10月29日

固定電話に毎日のようにかかってきた外国からの電話はこの頃はトンとご無沙汰である。
だもので、めったに電話は鳴らないのだけれど、先日買取やさんから電話がかかってきた。
家にある古着を買いたい、ということである。

あら古着を買ってくれるのラッキーなんて思っていると、やれ貴金属出せ、洋酒出せなどと言われるらしいので、断捨離したばかりで何にもないんですよごめんなさいね、と言って切る。

洋酒は、ない。
ウイスキーもブランデーも夫はたしなまないのでなぁ。すみません。
貴金属、というのも世間一般の方々が持たれているようなものは全く購うゆとりがなかったもので持っていない。

最近、金の相場が高騰しているとかで、私は毎日楽しみにチェックしている。
先週は金の地金で23000円台を付けたのが急落したりして、金をお持ちの方は笑ったり怒ったりしているのだろうか。
確かに、日本はもとより、アメリカも多分どうにかなっちゃうだろうと思うから、お金より金の方が信用できるのだろうなとは思う。庶民は右往左往して死んじゃうだけだけどね。

母が昔、パチンコをして実家の生計を支えていたころ、近くの台に座った常連のオニイチャンがオケラになって、母に声をかけ、喜平のブレスレットを買い取ってくれないか、と懇願したらしい。
たまたま母の財布にそこそこお金が入っていたので交渉がまとまりそのブレスレットは母のものになった。見せてもらったことがあるけど幅が1㎝くらいあるような重たそうなものだった。
母は宝飾品が好きだったけれど私は興味がないのでどのくらい値打ちのあるものかなどと考えたこともなかった。
それから数年たって、2013年ごろだったと思うが、新聞かテレビかで金相場がとても上がっている、というのを知って、父と母で相談して、どこかに金を売りに行った。その喜平ブレスレットのほかにもうちょっと細い喜平ネックレス(質流れ品をどこかで買ったものだったかと思う)なども持って行ったと聞いた。それが総額で20万円近くになり、「こんなにお金になると思ってなかった」と喜んで電話をかけてきた。(今調べると、当時の金地金価格は1gで5千円内外)
・・・ただ、そのお金は、まるまる母の妹に送ってしまい、母の手元には残らなかった。母の兄(独り身)が肺がん末期で死にかけていて、母は閉塞性動脈硬化症で満足に歩けないために看病にも行けず、詫びのつもりで妹に送金したのだった。これに父(吝嗇)が怒り母が死ぬまで嫌味を言っていた。

その時からさらに金の値打ちが上がって、当時の20万円なら今は80万超えるだなんて知ったら、両親はいかに思うだろうか。
草葉の陰で悔しがってるだろう(笑)

ところで、実は私も1コ、金の指輪を持っている。18金である。
これは、私が2回目の卵巣の手術をしたころだから1994年くらいに母に買ってもらったもの。
「とにかく金の蛇の指輪を買ってくるように」と言われて、梅田に出たときに地下街の安い宝飾品のお店で1万くらいで買って、あとでお金をもらった。

私の婦人科系の手術をなぜか、母は自分が流産したり、体のために人工中絶をしたりしたことの報いだと信じていて、だから無神論者の私にかくれてこっそり和歌山の淡嶋神社にお参りに行ったりしていたのだが、金の蛇の指輪もそういうたぐいのことだったろうと思う。
宝飾品は好きじゃない。神様も信じてないけど、指輪はできるだけつけていた。
私は母から愛されているという実感に乏しかったけれど、指輪は数少ない母の愛の形だ。

蛇だしね。節高になりしみの目立つ指に似合わないけど、まあ、売らずに持っとくね。