ゆうべは寝られた

投稿者: | 2013年8月10日

夜歩きしてきたら体が程よく疲れたみたいで寝入りに苦労しなかった。
すっと眠れるとうれしい。睡眠時間は少ないけどね。

私の知り合いに、2度デキ婚をした人がいます。
2度目にデキ婚をした時に、それを報告する手紙をもらったのですが、詳しいことは省くけれど、2度目の結婚を心から祝福することはできないというような内容の返事を書きました。

私自身が「棄てられた子ども」だから、彼女の手元から離れたひとり目の子どもに変に同調したという部分はあるのかもしれません。
14才で棄てられた私と違い、その子どもは確か1・2才だったはずだから余計に。

返事の返事は10数枚の便箋におよび、論理立てて書かれているように見えて怒りと不快にまかせた私の人格と結婚そのものへの中傷となっていたので、そのまま返事は書かずに放置しました。

私は自分の結婚を非難されるいわれはないと思いました。
確かに学業を放り出しての結婚であったけれども、夫への貞節や純情が揺らぐことはありませんでしたし、当初結婚に反対していた仲間たちと何度も話し合って、学びあう中で仲間たちが祝福してくれ、祝う会を作り上げてくれたことが喜びでした。
結婚から祝う会までの経過があったからこそ、決して一人一人とは親密とは言えなかった仲間たちの前で誓った絆だから、生半なことでそれを絶つことは大きな裏切りになる、そう思って、自分たちの婚姻関係を大事に大事にしてきました。
私のその立位置からは、彼女の結婚・離婚・再婚は不真面目にしか見えませんでした。

何年か前にネットで偶然に、彼女の最初の夫が自分史のようなものをホームページに書いているものを読む機会がありました。
そこに彼女の最初の子どもがひきこもり状態になったことについて経過を追って記述されていました。
その子のひきこもりの原因が彼女だと短絡的にいうつもりは全くありません。私がそうだったとしても、親の生き方が子どものすべてを決定するものじゃない。
ただ、彼女はこのことを知っているのかな?そう思いました。

そして最近になって、彼女自身のブログを見つけました。
そこに書かれているのは本当に臆面もない、彼女の二人目の子どもに対する愛情です。
子どもを愛するのは大事。子どもを愛する彼女も、愛されるその子もすばらしいと思う。
私がそれでも気にしてしまうのは、彼女の最初の子どもはこのブログを読んだりはしないのかな?ということでした。他人の私でさえネットで見つけることのできたブログです。
私が彼女の最初の子なら、絶対に愛されるその子と自分を比較してしまう。そしてそれは本当に辛いことです。
もちろん、彼女の最初の子どもは私と同じように思ったり考えたりするものでもないでしょうが。

所詮私は子どもを生んだことがないから、子どもを愛する気持ちも、それを棄てる気持ちもわかりません。
私にわかるのは、自分が棄てられた子どもであるということだけです。
わかりもしないことについてとやかく言う資格はありません。
だからここまで書いてきたことを彼女のブログを見つけてからずっとさまざまに考えてきたのだけれど、ここに書こうとは思いませんでした。

書いてみようと思ったのは、この間ドラマの「Woman」を見たからです。

主人公は幼時に実の母親が家を出て「棄てられた子ども」となりました。後に父親も亡くなっています。
夫との死別でシングルマザーになり、生活苦の挙句死病にかかって、やむなく生母の家に世話になることに決め、そんな中でその生母が語ったのが、「なんともない顔をしていると思うかもしれないけれども子どもを棄てたことをなんとも思っていないわけではない。一生死ぬまでそのことを自分で背負って生きていくつもりだ」というような台詞でした。

この母と、私の知り合いの彼女は違う人間だけれど、彼女がそんな殊勝なことを思っているように私には思えないけれど、それは私がそう「なんともない顔をしている」と思っているだけで、その程度は知らないけれど彼女だって自分が生んだ子どもを全く忘れて生きているわけじゃないだろう。そしてそれを死ぬまで心のどこかに持っているんだろう。私にそれが見えないだけで・・・そう思いました。

私なら二人目の子どもへの愛をだれもが見えるところには決して書かない。もうひとりの子に申し訳がないから。
でも彼女はもしかして、そういう配慮をすることで、二人目の子への愛情が損なわれるような気持ちになるのかもしれない。
二人目の子どもへの愛情をあふれさせても、最初の子どもには別の形で愛をあふれさせているのかもしれない。
そういうこともあるのかなと思ったのです。

今でも、若い時の彼女の性のあり方には私は批判的です。
私は私の答えとして、子どもこそ作れなかったものの自分の結婚を守り育て、誠実に明後日で28年という歴史を積み上げてきました。それは彼女にはできなかったことです。
ただ、子どもさんのことについては、私とは違うけれど彼女なりのあり方というものも否定的にとらえたらいけないのだなと考えるようになりました。


源平小菊にきたヤマトシジミ。