8月31日の午前9時半過ぎ、父が自宅で倒れているのを訪問看護師さんが見つけ、地元の医療センターに救急搬送された時点で父は意識がなかった。
救急外来の待合室で待つ間に、弟に電話を入れた。日ごろ多忙な弟なのになぜかすぐ電話がつながりあらましを伝えることができた。
夫にも電話を入れたのだがつながらない。いつものことだが夫は携帯の着信音に無頓着で、出先で私の電話やLINEに気付くことが稀なのだ。よりにもよってこんな時に、と言う話だがこれが夫なので仕方がない。LINEにメッセージだけ送った。
HCUに父が運ばれて、入り口前のベンチで待っている時、夫からようやく着信があったが、通話ができる場所ではない。LINEでその旨伝えた。
いわば危篤の一歩手前にいる父への今後の治療方針を決めるのに、家族の意向を医師は確認するのだが、「延命措置は望まない」という父の意思を伝えるということは、「どんなことをしても父の命を助けてほしい」と願う、子としてのあるべき姿とは相反していて、それをだれにも相談もできずたった一人で決断して伝えることが耐え難かった。
それでも、その責任は私が負うより仕方がない。
病院での手続きが終わり、一旦実家に向かうことにして、病院を出たところで夫に電話を入れたら、仕事を抜ける段取りをしてこれから病院に来るという。
月末で棚卸があり人手の足りない日であるのはわかっているので、もう病院を出たところであるし来てもらっても何もすることはないから来ないでよいと言っても、とにかく行くわ、と言って聞かない。
それなら実家に来てと言って電話を切り、私はバイクで実家に向かった。
訪問看護師さんから事の次第を聞いていた通り、居間の、父の倒れていたであろう場所は、畳に失禁の染みが広くあった。洗濯機には看護師さんが脱がせてくれた父の汚れた着衣が入っていた。家の窓を開け換気扇も付けて、汚れ物を予洗いしてから洗濯機を回し、畳を濡れ雑巾で何度も拭いて、臭いを感じなくなったところで扇風機の風を強にして当てた。
寝室の介護ベッドの横の父の自作テーブル(と言っても段ボール箱を積み重ねただけ)の上に、灰皿と寝酒のコップの盆があったので片付けようと台所に持って行ったら、流し台の上にアルミの計量カップがあり、水が入っていた。
父はいつも、深夜零時をまわったらその計量カップに水道の水を汲み置きして、朝になったら母に供えるのだ。
父の日ごろのんでいる薬をひとまとめにしお薬手帳も入れ、箸やスプーンやコップなどHCU指定の準備を整え、ひとまとめにして持ち帰る用意をした。
そうこうするうちに夫が来たのであらましを伝えながら洗濯物を干したり、冷蔵庫の生ものを廃棄して可燃ごみをまとめた。
するべきことができたので、一旦自宅に引き上げることにした。可燃ごみの清掃局への持ち込みが午後4時までなので夫に車で運んでもらうことにし、私は新聞を止める連絡をしてから戸締りをして実家を出た。
病院からいつ電話がかかるとも限らないがバイクで走行中は着信音に気付きにくくヘルメットを取らないと電話にも出られない。信号にひっかかるごとに携帯を見た。ちょうど道程の半分くらいのところで弟からの着信履歴に気付きバイクを止めてかけなおし、状況を伝えた。
その後も何度も携帯を見て着歴を確認していた。もうすぐ自宅というところで電話が鳴っているのに気づき慌ててバイクの停められるところを探して停めてヘルメットを脱いだら切れてしまった。かけなおすのだが病院への電話はまずは交換へ繋がってしまうのでHCUを呼び出してもらいやっと担当医が出た。
父の容態が変わり、今日明日、という状態になった、と。
電話を切ると夫からの着歴。自宅にも電話が入り先に帰宅していた夫が出てくれたよう。
帰宅して、これはすべて支度して実家で待機するのが最善であるから、喪服と3日ほど泊まり込みできる荷物を詰め、弟に連絡をし、届くはずの宅配の荷物を待って受け取ってから戸締りして夫の車で出た。
父の姉と甥(長姉の息子)に電話連絡を入れた。
私は朝食の後、何にも食べていなかった。
夕食を食べる間があるかどうかもわからなかったので自動車道にのる前にマクドナルドに寄ってセットを二つ買った。ポテトだけ食べながら走った。
母が亡くなる1日前だか2日前だか、八つ当たりする父の顔を見たくなくて買い物に行くと言って家を出て、食事がほとんどできなくなっていたけれどこれではアカンとマクドナルドに入り、ハンバーガーを食べたなぁ、などということを思い出していた。