もみぢがり

投稿者: | 2022年11月27日

なかなか、気持ちが整わない。

始終肌身離さずにいたスマホは、もう全然鳴らない。父からの着信はもちろんないし、在宅医療の担当医からも看護師さんからも、ケアマネさんからも、リハビリの先生からも電話がないから。
・・・私のスマホの電話帳はほぼほぼ父の介護医療関係の人なので、それがなければもともと友だちのいない私だもの、電話がかかってくることはないのだ。
そう分かってはいるものの、何をするにもスマホを身近に置いておいて注意している気持ちが改まらない。

この3年で、実家通いがどうしても日常生活を圧していて(いわば2軒分の家事生活を受け持っているわけだから)、家事全般、外での買い物でも家の中でもいつも早足、半ば駆け足で(父にも「お前はいつも走って買い物しとるな(夫の車で待つ父は私が買い物に走るさまを見ていた)」と言われていた)、だけど、実家通いはまだ続いてはいても、オンタイムで急ぐ必要はもうないにもかかわらず、やっぱり急ぎ足で動いている。

昨日も、イカリソウのポットの、表土がコケと雑草だらけになっているのをはいで抜き取り、表土だけ入れ替えの作業をしながら、やたら急いでいる自分に気が付く。
急がなくてもよい。この作業を楽しまないと何のために植物を育てているのかわからない。
とは、わかっているものの、焦燥感が胸の内から高波になって押し寄せて飲まれてしまいそうになる。

落ち着かなくちゃ。自分の時間を楽しめるようにならなくちゃ。

木曜日はまた実家とゴミステーションの往復だった。
金曜日の夫の休日には、久方ぶりに紅葉狩りにでも行こうということになって、談山神社と室生寺のハシゴをすることにした。
よく晴れて、空は真っ青。絶好の紅葉狩り日和。

下手な写真ながら、紅葉のお福分け。

談山神社。

室生寺

この3年の間でも、ちょこっとどこかに行くことはあって、でもそんな時でもいつも父のことを心の半分では考えていた。
遊び歩いている間に、なにか大変なことがあったらどうしよう、と気が気ではなかった。

もう、どこに行っても、自分の心のすべてを使ってよい景色、美しいもの、楽しいこと、味わえるんだ。
そうでなければならない。
なのに、川に放たれた金魚のように、カゴ抜けした小鳥の様に、私は戸惑っている。
難しい、自分を取り戻すこと。