あけましておめでとうございます。
今年も過疎ブログをよろしくお願いいたします。
昨夜は、星野源を待って紅白を見ていた。
なんか高そうなセーター着て、ジャラジャラしたネックレスつけてこれ見よがしだなと思った。
ギターを弾きだすまでの「間」は、これは威嚇だな、と思った。
ギター一本で、たった一人で歌い出すクソ度胸。
そして、歌詞の変更。「私はにせもの」が「私もほんもの」に。
14年前の星野源は「にせもの」と歌うことで共感を得られた。聞く人の自己肯定感の低さを慰めたから。
今の星野源は「まんなかを行く(「夢の中へ」)」のだから、「にせもの」と歌っても誰の心にも響かない。
14年前のくぐもった声じゃなく、今の声で、「この高みを見よ」との体で歌い、最終部のスキャットのラララを止めて、まるで何か言いたげな、というか、忌野清志郎が生放送でやらかしたひそみに倣いとんでもないことを言うのじゃないかと一瞬思わせて「みなさん・・・・・・・よいお年を」と。
これは、歌手の仕事というより、俳優のそれ、だ。
そう、星野源は、世間一般に思われているよりもきっと、たぶん、ずっと、したたかであくどい。
「こんばんはー星野源でーす」とヘラヘラして出てくることだって可能だったはず。そういう演技はできたはず。
でもそうしなかった。不機嫌に怒っているみたいに、上手に演じた。
だから、ファンの方たちは、「正義を振りかざしたフェミニズムやキャンセルカルチャーへの怒りを込めて歌い切った。あっぱれ星野源」なんて大喜びしてる。
私は聞いていないけど、その後の生のANNで、リスナーからのメッセージに泣いたとか。
言及したわけではないにしろ、被害者をこれまた上手に演じたんじゃないか。だって役者だもの。
SNSでは、紅白出場者のファッションにすぐ言及できるほどの通がたくさんいらっしゃるようで、あのジャラジャラネックレスの素性を後から知った。ティファニーの1270マンエンのものなのだそうだ。
いや、無理だ。世界はひとつじゃないし、ばらばらで、重なりあったところにたったひとつのものがあるんだとあなたが歌っても、1270マンエンのネックレスをした人とではたったの0.001ミクロンも重なるところはないわ。
まあ、そんな感想。
星野源でげっそりしたけれど、その後はいっぱい楽しんだし、トラツバ&米津玄師は鳥肌レベルだったし、最後の矢野顕子の壮大な無駄遣いも堪能した。
沙莉ちゃんのトンチキな司会もよかった。
今年で年賀状をやめたけど、紅白ももうそろそろ潮時じゃないか、と思っていたが、案外まだやれるんじゃないの、とちょっと思える大晦日でした。