晩御飯はうなぎ。
今年は夫の職場でも鰻の予約注文があったので、もうほぼノルマみたいなもので。
去年は父にうなぎを買って持って行ったけれど、「うまない」って言われたなぁ。
もうすぐ死んでしまうと知っていたらもっとちゃんとしたところで買って食べさせたのに。
亡くなった人を、可哀そうだ可哀そうだと思ってしまう気持ちを考えてみた。
母を亡くして一人暮らしになって、立て続けに入院したり救急車の世話になって、それが落ち着いてきたかと思ったら死病に取りつかれてしまって。そうした過酷な毎日をいくら私が通ったとは言え全部ひとりで受け止めなければならなくて、しかもどんどん認知機能も身体機能も衰えていって、内心どんなに恐れていただろう。
そうして、倒れた時も一人で。怖かっただろうな。辛かっただろうな。
・・・そんな風に思うとただただ可哀そうでこの3年のことがすべて悔いになる。
死にゆくときのことだけで人の人生をはかるからいけないんだ、と先日ふと考えた。
貧しく生まれて、中学卒業から少ない給料で働いた日々もあったけれど、子どもの頃は天真爛漫なガキ大将だったらしいし、職業運転手になってからは努力していつも職場で一番の運転技術を誇り、お金も貯めて持ち家も手に入れて、遅い結婚で子連れだったけれど恋女房と連れ添って、あちこち旅行に行ったり釣りをしたり・・・そうした輝かしい日々もあったのだ。
人間、幸も不幸も帳尻が合うようにできている、なんて私は信じてはいないけれども、父に限って言えば幸せな時期は決して少なくなかった。晩年の3年は確かに不幸だったけれど、人の一生として捨てたものじゃなかった。
そう考えないと、かえって父に失礼だ。
頭でわかっていることも感情はすぐにくつがえすけれど。
こうやって、人はすぐいなくなるものだし、いなくなったはずの人がいつもいたりするものだ、と、私の老いは教えてくれる。